愛知県では県議会議員選挙が今日(3/29)から始まりました。いくつかの選挙区では、定数と立候補者数が同数となったため、17時の立候補届出の締切をもって無投票当選が確定したようです。(実際には選挙管理委員会で確定)
どうやら無投票当選の選挙区の数が史上最多のようで、こうなると「投票する権利を奪われた」「そもそも定数が多い」「議員なんて不要」という声、というか論評が増えますよね。そして候補者には「こんな楽して当選して、4年間税金で食うのか」という言葉も浴びせられます。私も市長2期目は無投票でしたが、「無投票だから仕方ない」「誰か出ていればお前なんか当選しなかった」などというご意見を「わざわざ」送ってくる方もありました。しかし、私は自分が無投票を経験する以前から言っているのですが、無投票になったのは候補者の責任ではありません。立候補しなかった、その他の方の責任です。政党は、全選挙区に候補者を立てるのが理想ではありますが、選挙区によってはそうもいかない事情もあるでしょうし、そもそも候補者を立てて無投票を阻止する義務はありません。私は、選挙は政策の闘いだと考えていますので、単に無投票阻止のために手だけ挙げることには賛同できません。選挙に立候補する、というのは本当に大変なことです。それはやはりちゃんと評価するべきだと思います。
そう言えば、一時期は20人の定員に30人くらいが立候補を予定していると言われていた尾張旭市議会議員選挙ですが、名前の挙がっていた人の取りやめが相次ぎ、結局23名くらいになるようですね。これくらいなら、ある程度選挙準備のことが分かっている人であれば、今から準備しても作戦次第では当選ラインに入る可能性もあると思います。
今日、県内(尾張旭市ではない)を移動していて、あちこちで県議会議員選挙立候補者のいわゆる2連ポスター(看板)を見かけました。これは選挙期間中は掲示が認められていないものなので、多くは上から別のポスターを貼ったり、候補者のところだけ別の人のシールを貼ったりするものですが、そうしていない陣営があるということです。そうしたポスターの掲示してある場所を正確に把握できていない、ということであれば後援会や事務所の管理能力に疑問符が付きますし、知っててあえて注意されるまで放置している、ということであればこれは悪質ということになります。議員になろうと選挙に立候補している皆さんですので、理不尽であろうとなかろうと、公職選挙法を遵守する方向で正々堂々と政策で勝負していただきたいと思います。そしてそれば、選ぶ側にも問われていることです。
どうやら無投票当選の選挙区の数が史上最多のようで、こうなると「投票する権利を奪われた」「そもそも定数が多い」「議員なんて不要」という声、というか論評が増えますよね。そして候補者には「こんな楽して当選して、4年間税金で食うのか」という言葉も浴びせられます。私も市長2期目は無投票でしたが、「無投票だから仕方ない」「誰か出ていればお前なんか当選しなかった」などというご意見を「わざわざ」送ってくる方もありました。しかし、私は自分が無投票を経験する以前から言っているのですが、無投票になったのは候補者の責任ではありません。立候補しなかった、その他の方の責任です。政党は、全選挙区に候補者を立てるのが理想ではありますが、選挙区によってはそうもいかない事情もあるでしょうし、そもそも候補者を立てて無投票を阻止する義務はありません。私は、選挙は政策の闘いだと考えていますので、単に無投票阻止のために手だけ挙げることには賛同できません。選挙に立候補する、というのは本当に大変なことです。それはやはりちゃんと評価するべきだと思います。
そう言えば、一時期は20人の定員に30人くらいが立候補を予定していると言われていた尾張旭市議会議員選挙ですが、名前の挙がっていた人の取りやめが相次ぎ、結局23名くらいになるようですね。これくらいなら、ある程度選挙準備のことが分かっている人であれば、今から準備しても作戦次第では当選ラインに入る可能性もあると思います。
今日、県内(尾張旭市ではない)を移動していて、あちこちで県議会議員選挙立候補者のいわゆる2連ポスター(看板)を見かけました。これは選挙期間中は掲示が認められていないものなので、多くは上から別のポスターを貼ったり、候補者のところだけ別の人のシールを貼ったりするものですが、そうしていない陣営があるということです。そうしたポスターの掲示してある場所を正確に把握できていない、ということであれば後援会や事務所の管理能力に疑問符が付きますし、知っててあえて注意されるまで放置している、ということであればこれは悪質ということになります。議員になろうと選挙に立候補している皆さんですので、理不尽であろうとなかろうと、公職選挙法を遵守する方向で正々堂々と政策で勝負していただきたいと思います。そしてそれば、選ぶ側にも問われていることです。